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教育プログラム      世界物理年 2005 >> http://www.wyp2005.jp/

世界物理年日本委員会メールマガジンより転載


   「生物物理と21世紀のアインシュタイン」

  日本委員会運営副委員長  石渡 信一
  (日本生物物理学会会長・早稲田大学理工学部物理学科教授)

 日本生物物理学会(http://www.biophys.jp/)は、世界物理年日本委員会の団体会員の一員として、世界物理年の活動に参加しています。しかし、多くのみなさんにとって、"生物物理学"という言葉はなじみの薄いものかもしれません。また、アインシュタインを中心に据えた世界物理年の活動と生物物理学という学問領域との関係が良く分からない、と思われる方もおられるかもしれません。実は私も、北原和夫さんからお誘いを受けるまでは、うかつなことに、世界物理年の活動と生物物理学とは距離があるかなと思っていました。しかし、1905年のアインシュタインの偉業の一つが「ブラウン運動の理論」であることに気づいたとき、生物物理もこの活動の一翼を担うべきであると判断しました。
 液体中のミクロな物体は、生物であるかないかによらず、アインシュタインの理論に従った「ブラウン運動」をします。ミクロな物体のブラウン運動は光学顕微鏡で直接見ることができますが、方向がでたらめな、激しい熱運動です。細胞の中の生体高分子は、ブラウン運動という物理的制約の中で、生物らしい機能を発揮しています。あるいは逆に、生物系はブラウン運動という物理的制約を巧みに活用することによって生物機能を獲得し、発揮しているとも言えるでしょう。では、具体的にどのように活用しているのか。それが知りたくなります。まさしくブラウン運動の物理は、生物物理学の中心的な課題の一つとなっています。
 では、生物物理学とはどのような学問でしょうか。朝永振一郎博士はその著書「物理学とは何だろうか」(岩波新書)の中で、物理学とは"・・・われわれをとりかこむ自然界に生起するもろもろの現象−ただし主として無生物にかんするもの−の奥に存在する法則を観察事実に拠りどころを求めつつ追求すること・・・"と述べています。そこで、この中の"無生物"を"生物"と置き換えてみると、それは生物物理学の重要な一面を表したものになると言えます。生物は、この地球表面という限られた物理的、化学的環境の中に存在するものです。宇宙の広がりや宇宙の寿命から見ると、本当にちっぽけな、そして、ほんの一瞬だけ出現している特殊な存在です。しかし、我々人類にとって、我々も含めた生物とは一体どのような存在なのか、生命とは何か、生命はどのようにして出現し進化を遂げたのか、このような問いほど興味深く、また重い問いはないでしょう。生物は、ブラウン運動に限らず、物理・化学法則という制約の中で、それを活用しつつ"生きて"います。  朝永博士は、但し書きとして、物理学の対象を自然現象の中の無生物に関するものと限定しました。ここで言う物理学とは、朝永博士がこの著書を著した時点での物理学であって、当時はまだ生命現象が物理学として定着しうるものか、あるいは物理学、化学といった物質科学の言葉だけで記述できる対象であるかどうか、その点について将来を見すえて、物理学の内容を注意深く限定したのだろうと推測します。当時、我が国の著名な物理学者の中にあって、湯川秀樹博士は、物理学の対象としての生物、それを担う学問としての生物物理学に大きな期待を寄せていました。
 さて世界物理年の主役であるアインシュタインはどうでしょうか。私は、アインシュタインが生物(学)について語った文章が存在するかどうかを知りません。しかし量子力学誕生の頃の多くの物理学者たちが、新しい物理学を生み出す一方で、生物・生命現象の物理的理解というテーマに関心を持っていたことは間違いありません。そのような環境の中で、量子力学の創始者の一人であるシュレーディンガーは、その著書「生命とは何か」(岩波新書)を通じて、独自の生命物理観を語り、このテーマへの強い関心を表明しました。また、この二人よりもふた周りほど若い、理論物理学者として将来のホープと目されていたデルブリュックは、ボーアに触発されて20歳代で生物学に転じ、分子生物学の基礎を築き上げました。このように、20世紀物理の流れの中に、現代生物学への展開の芽と確かな足跡を幾つも見て取ることができます。
 20世紀は物理学の世紀といわれ、21世紀は生物・生命科学の世紀ともいわれます。また、このメールマガジンの記事の中には、21世紀のアインシュタインの出現を待望するという言葉も見られます。20世紀物理学時代の象徴としてアインシュタインがあるならば、21世紀のアインシュタインは、生物・生命科学において出現しなければなりません。生物・生命科学にはまだまだ未踏の領域が広く深く存在します。その中でも、高等動物、とりわけ人間の脳の働き、それがどのような仕組みなのかは最も難攻不落の難問のように見えます。しかし複雑な脳組織といえども、神経細胞のネットワークを中心とする細胞群と捉えることができるでしょう。一方、細胞は水という特殊な物質の中にあって、細胞膜によって包まれた、タンパク質、脂質、遺伝子DNA、様々な低分子からなる濃厚溶液系であり、ゾル・ゲルといった多様な状態をダイナミックにとる物質系と見なせることは間違いのないところです。物質からなるシステムである限り、その状態や働き(機能)は物理学・化学の言葉で解き明かすことが可能なはずです。しかし問題は、物性物理学が量子力学という基礎(言葉)を得ることによって発展したように、我々の脳の高等な働きを記述しうる物理学としての言葉は何か、それが分からないことにあります。いや、それ以前に、脳の働きとは何か、こんがらがった糸巻きのどこに芯があり、それを取り出すためには糸をどこから解きほぐせば良いか、まずは問題の在りかとそれへのアプローチの仕方を指し示す必要があるでしょう。問題の在りかが分かり、そこに既存の言葉だけでは不足であることが分かったとき、私達は21世紀のアインシュタインの出現を必要としているように思います。
 生物・生命科学にアインシュタインが出現するなら、その人は分析的な能力だけでなく、複雑なネットワークをそのまま記述するための手段を作るという統合力をもった人物ではないかと想像します。我が国は、物理学だけでなく、伝統的に数学や哲学といった分野にも偉人を出しています。21世紀のアインシュタインが我が国から出現する可能性は決してゼロではありません。

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